曖昧さこそ必要
世間一般では「曖昧さの回避」という言葉があるように、厳密性がより求められる世の中に思います。
あるテレビプログラムにおいては「世界は数式でできている」などと表現される様に緻密、厳密、再現性、確証など確かな事が正義だとする節がある様に、私は感じています。
確かにバイク、車を含む機械全般、それに物理法則を読み解こうと思えば、その厳密性や正確性はとても重要です。ただ、その厳密性は絶対的な正しさではないと、私は断言します。
人間の感性は数値化できない部分があり、その数値化できない曖昧な部分をどうセッティングに落とし込んでゆくのかが、楽しくもあり難しい部分なのです。
数値化するとは究極はデジタル表現で、そのデジタルの合間を繋ぐ文脈こそ、一番価値のある部分であろうと考察します。ですが可能な限り数値化しておけば、かなり細かい部分まで視覚化したり簡単に再現できるのも事実ですから、それ自体を単純に否定する訳ではありません。
ただ、いくら数値を極小化しても0.01と0.02の間には隔絶した世界があり、1,000分台に細分化してもその先には10,000分台が控えています。
エンジニアリングはその合間を埋める作業だと理解はしていますが、エンジニアはその合間を埋める手段(この場合、数値の細分化)に没頭し過ぎているのではないかとの疑義を感じずには居られません。
この合間を埋める文脈はどの様に繋げて行くのかと言えば、私が得た答えは「芸術的表現」に他なりません。思考と行動により得られる経験を多く積む事により、直感力を高められます。と同時に音楽、文学(この二つが私にとっての主な芸術ですが、もちろん絵画や写真、漫画にアニメなど芸術的要素を含んだ全て)を対象として、美意識を鍛えなければ良いバイクや車は作れないと、これも断言します。
私が大切にしている三つのP、哲学、規範、思想(フィロソフィー、パラダイム、ポリシー)の枝葉であるポリシーすら持たない乗り物が、質感の高さを持ち得るはずがありません。
ですから、芸術性が大切になるのだと思います。しかし逆説的に芸術性を高めるには何が必要なのかと考えれば、そこにある種の厳密性が必要となります。対象を観察し分析して、得られた情報を再構築しなければ再現性のある芸術ではなく「偶発」でしかないからです。
そうなれば、先ほどから展開していたエンジニアリングとしての緻密性は、その必要性を十分に帯びてきます。つまり結論はいつも中庸となりますが、エンジニアリングを高めつつもアートの要素も同時に高なければ、求める質感を得る事が叶わないはずです。
どちらか一方に偏らず、同時進行であるべきです。ただ、私自身はエンジニアリング的緻密性が欠如している様で、芸術性の方法論をエンジニアリングに用いている事が、最大の特徴であり、それは他者比較で非常に優位であると同時に大きく劣った部分と言えます。
その劣った部分を補うのは私自身ではなく、周りにいる友人知人を頼り、彼らの知見を自分の一部とする事で大きな飛躍がなされる(し、なされてきた)のです。
これからも曖昧さを求めつつ、そこに内在される厳密性を読み解く事により、最良のパッケージを車両に落とし込んで行きたいと思います。