善悪の彼岸、パラダイムシフト
イタリア語の学習を熱心にしていたころ、イタリア映画をむさぼるように見ていました。その中で古い映画でしたがドイツの哲学者ニーチェの「善悪の彼岸」を基にした作品を見ました。イタリア語では「Al di la' del bene e del male」と言います。
善悪の彼岸を読んだことはありませんが、概要はキリスト教の観点から世界を見る事への脱却を説いているようです。
思想とは模範の上にあり、模範の下には哲学がある。つまりは善悪の彼岸とはパラダイムシフトの事と「自分勝手に」捉えています。紐解くとキリスト教の視点、仏教の視点、ユダヤ教の視点もあるし神道の視点もあります。この様に視点を「換え」れば世界観も変わります。キリスト教という宗教のパラダイムを換える事が真理探究には必要だったのではないでしょうか。
しかし、人間の思考は真理から発生したのではなく、思想から物事を見つめて行き、模範を通り、哲学・真理へと到達します。なぜ哲学を欲するのかと言えば、最も遠い場所に位置しているからかもしれません。逆に思想にとどまり思考を巡らせていては、堂々巡りを繰り返し本当の事にはたどりつかないと思います。
道路や橋脚、ライフラインと呼ばれる物が社会のインフラストラクチャーならば、思考の下部構造は哲学が相当します。
良いサスペンションを造りたいと思う時も、まったく同じ構造が当てはまります。ダンパーでは仕上げ精度を保証する機械加工、材料などが下部構造のインフラであり、その上に寸法をどうするか、どんな材料を用いるかと言う上部構造のスープラストラクチャーがあります。セッティングについても同様です。
昨日はダンパー開発の担当の方と短い時間でしたが、話をする機会を得、上記のような事を考えるに至りました。会話、出会い、経験に触発され思考が巡り、新しい発見があるのは嬉しいく思います。