デカルトとイタリア語、

 先ほど書いた文章に対し、自身で疑いを持ち、ふとデカルトが頭をよぎりました。

 「我思うゆえに我あり」で有名ですが、解釈は人それぞれ。短い言葉で多くの解釈を生み出すのはやはり哲人の証拠でしょうか。

 イタリア語では「Penso dunque sono」と言うようです。原文はフランス語ですが、当時のヨーロッパにおける知識階級の言葉たるラテン語ではなく、フランス語で書いたのは、特別だったようです。イタリアにおいてもダンテが神曲をイタリア語で書いたのは、その後の発展における礎になったと言われています。

 Penso = pensare 考えるの動詞、一人称単数の活用。 Dunque 接続詞、(結論的に)だから、したがって Sono = essere 英語のBe動詞、一人称単数の活用。

 Pensoの部分はラテン語でCogitoとありますがイタリア語にもCogitare,Cogitazioneという思案、思索にふけるという動詞、名詞もありますが、一般的でないのかもしれません。直訳すると「(私は)考える、だから(私は)居ます」となります。イタリア語は人称代名詞を省略する場合がほとんどで、( )内の一人称単数の人称代名詞を(私)としました。先ほども書いた、色々な解釈があり得るとするならば、「考えるから存在する」が現状の私の答えです。以前耳にした「自身の存在を疑う(考える)から、自分の存在がある」もわかる気がします。ただ、その解釈はほんの少しだけ狭量な印象があります。そうはいっても、前後の文脈(contesto)がわからなければ、理解もあった物ではない為、似非哲学という事でお許しください。

 サスペンションを考える時、上記のような事を考えます。少し前に書いた「製造において大切なのは文学」の真意はこの思考方法の一部を指しています。