多様性と平均化
多様性(ダイヴァーシティー)と叫ばれて久しい昨今ですが、それについて考察しました。
多様性の対義語が平均化(アヴェレージング)なのかは知りませんが、ある言葉を考える際にその対極を知らなければ、論じられないと私は考えています。
例えば日本の様な単一民族国家に移民が入り、その国に多様性がもたらされた、と言える状況は一方では平均(平準 レヴェリング)化されたとも言えます。
なぜか?それはある一つの地域に限り複雑系を手に入れた様に見えても、複数の地域(地球規模)なら民族AとBが混ざり合いそれぞれの個性が平均化され、凹凸がなくなる状態ではないでしょうか?
日本は1億人以上が住む、経済圏としては大きな市場です。そこではガラパゴス的な進化であっても、その地域性にあった独自の進化であれば、そこに住む人にとっては適した進化であり使い勝手は抜群だと思います。
1億人以上も居る巨大商圏が共通した文化(言語)を有し、その巨大性が多くの大企業の製品を、国内消費だけでも十分に潤せる環境となり、独自発展を遂げる助けとなっていたいと思います。
*この経済環境の悪化による国家と企業の衰退に関しては、政治の話になるため、ここでは話が長くなりすぎるので論じません。
以前、日本の携帯電話がガラパゴス化して、他国では使えないと表されていました。しかし、ガラパゴスは閉ざされた空間で各々の生物が独自性を大きく伸ばし、面白い進化を遂げています。
それが他国での使い勝手を追い求める中で、独自性を失い、味の薄い商品群が出来上がり、企業の衰退を招くと思います。
イタリアの旅行で知ったのは、その当時世界の携帯電話業界を席巻していたのはノキアです。ですが日本でノキアをみる機会はほとんどありませんでした。
それは日本市場がガラパゴス化して、欧州の広範囲をカヴァーする電話が使いずらかったからかどうかは知りませんが、とにかく入ってこなかった。
その状況が一変したのは初代iPhoneが発売されてからです。日本市場を含むかなり多くの地域がiPhoneにとって替わり、スマートフォンが各社から発売されました。
強力な外来種(iPhone)が在来種(日本製)を駆逐し、舶来品という名の多様性が世界中に普及しそれは結局、平均化つまりは単一化というミクロでみれば多様化した様に見えて、マクロで見れば面白みにかける状態になりました。
サスペンションやバイクでも同じ事が言えます。世界中で通用するバイクや乗り味を求めると、結局は面白みのない物が出来上がってしまう。
以前、前川製作所の社長が『世界を変える「場所的経営」』という書籍を出されていました。この本は極端に要約すれば、地域密着で独自の進化を遂げるべき、と書かれていました。
私はサスペンションの仕上げ試走に近所の道を走ります。たまに首都高でも試走を行いますが、私が好むと好まざるとに関わらず、場所的な限界(制約)から今の走りやサスペンションセッティングが出来ています。
どこにでも通用する汎用性を捨て、限定された地域でしか通用しない独自性が、実は多様性の一端を担い、それらが数多く同時に存在できる環境こそが、多様性の本来あるべき姿だと私は結論づけています。
当社のセッティングは代表である私が、独善的に作り上げたテイストです。それは好き嫌いの極端な差を作り出し、当社の独自性であり、他者(他社)との差を生んでいるはずです。
これからも芯を喰った独自性を追求してゆきます。