経路依存性と認識共同体
経路依存性
「けいろいぞんせい」と読みます。つまりこれまで辿ってきた道筋をそのままなぞり、逸脱せず同じ事を続ける。惰性で進むような事を指します。
認識共同体
「にんしききょうどうたい」と読みます。簡単に言うと村社会のような(それ自体が悪いわけでないく)、認識を共にする仲間の集まり(パーティー)です。
車両運動に限らず、全ての物事は上記二つの危険性、逆を言えば安定性を含んでいると思います。途中で経路を変えるのは難しい事です。過去の自分や研究を「否定」とまでは行かなくとも疑う姿勢を持たねば依存体質を見破ることは叶わないからです。
認識共同体に関しても、この党に属していれば楽ができます。話は通じるし自分が間違っていないと安心感もある。しかしこれも上と同様に疑う事を怠ればあっという間に道を違えると思います。
デカルトは言った
Penso dunque sono これはイタリア語ですが読み方は「ペンソ ドゥンクエ ソーノ」日本語訳は「我思う故に我あり」となります。意訳では「考える・従って(つまり)私である」。考える事は常に必要であり、考えるはこの場合に限らずかなりの部分で「疑う」と同義なのかも知れません。ですから経路依存性と認識共同体の甘い罠から抜け出すにはPenso dunque sonoとなるわけです。
しかし!前記二つが必ずしも悪ではありません。要所要所で間違いを正す必要はありますが、安住するなと言う意味であり、昨日は是とした事柄を今日は非とすれば進歩は遅々として起こらないと思います。ですから一定の割合で疑うことが必要であると、そういう事です。