工業製品と文学

 とあるTV番組を見て、ある着想を得ました。

 以前から感じていた問題でもありますが、私は工業製品は機能性だけで成り立つとは考えておりません。イタリア人の気質で「少し使いずらくても、美しい品を選ぶ」というのがあります。使いやすくても不細工なのは選ばないわけです。共感します。

 ダイソンは機能性とデザインを高度に併せ持つと言われているようです。私見ではダイソンのスタイルは全く共感しませんし、欲しいと思ったこともありません。私の眼には「使いやすいかもしれないが、美しくない品」です。ただ、世間一般ではあれが「美しくて使いやすい」品のようです。

 ダンパーも全く同じで、機能性の他に外観の美しさもとても重要です。それは要求性能を満たすため、どうしてもその寸法にせざるを得ず、その中で最も美麗な形状を目指すのが、上記の内容です。

 しかし、それは見える部分だから美しくしているのであり、合理主義の域をでないと思います。昔から日本は見えない部分にも手を掛ける、いわゆる「粋」とよばれる文化があります。組んでしまえば見えない部品です。しかし要求性能を満たしていても、(自身が)美しいと思えないシム組は納得できません。それは粋を超えて文学と同じだと思います。長い時間を掛け要求性能を体で覚え、それを満たすためのシム組を何度も行いやっと得た答えです。作家は文章で語りますが、ダンパー製作は、サスペンションシステム全体の動き方で語ります。だから文学なのです。

 工業製品はアート・芸術と違い、販売が最大の目的になっています。だからこそ製作者の文学的な思いがより重要だと感じています。ドイツ・バウハウスの機能美を最上位に置くことに異論はありませんが、そこから選択できる範囲で美しい形を選び、そこに製作者の文学を落とし込む事が大切ではないでしょうか。