考える行為を楽しむ
これは度々申し上げている事でもありますが、私は理論を根本とところで信用していません。
どう言う意味かと申せば、物理法則は絶対的な人の考え方に左右されない事象です。しかし理論とは「理りを論じる」または「論じた理り」を意味しています。つまり人の考えを体系化したと言い換えられます。ですから、模範(パラダイム)を変えれば答えも変わります。これは統計の際に入力する数字が少し違えば、答えが大きく変わるのと似ています。
私どもが提供する乗り味はロードコンタクトテクノロジーと呼ぶパラダイムに立脚しています。その模範の根源には、車両運動を読み解いた物理法則の上に乗っています。詰まる所、当社がお客様に届ける乗り味も私(とその周りの賛助者)の思考の結果です。
今は最善と考える模範と、読み解いたと感じている車両運動の法則も、さらに詳細に読み解けば違った視点が浮き上がるかもしれません。これは原子が最小単位としていた処から電子、陽子、中性子、素粒子が発見(または理解)され世界が広がった事に似ています。私はこの事を「更なる高次元の発見」と呼んでいます。車両運動の世界にも高次元の発見で大きく変わります。同じダイアルを動かす行為が結果に与える影響は、考えかた次第でまるで違った結果をもたらします。
ここまで来ると、サスペンションセッティングは哲学なのか思ってしまますが、世の中の全ては捉え方次第で如何様にもなると言えば、もう少し気楽になります。
更なる高次元への発見・移行は、日本の諺にある「重箱の隅をつつく」に似ています。悪い意味を持つこの諺ですが、重箱の隅をつついていると実はその奥に更なる世界の広がりを知ります。感覚的には隅をつつき狭い世界を探るはずなのに、その奥にある世界は更なる広がりを持ち、空間的にはより広大だと感じています。これを昔の人は無知の知と言ったのでしょうか。閑話休題。
と言った様な事に思索を巡らせながら、セッティングを行なっている次第です。