母語、イタリア語、英語

 昨日、友人とツイッター上で意見を交わしましたが、その主たる話題は英語についてでした。そこから久しぶりに英語の扱いについて考えてみました。

 私は小学生の英語教育に反対の立場をとっています。母語の扱いでさえ曖昧な若年層に英語を教えても価値がないと考えるからです。これに関しては妻とはかなり意見の開きがあり、未だにその溝は埋まっておりません。

 評論家の中野剛志さんは「パターン化された文言を沢山覚えれば、話せた様に思える」、「母語ですら自分の考えを伝えるには、言葉が途切れたり、考えに詰まることがある」と言います。
 ツイッター批判をする気はありませんが、現代人は会話ではなく「つぶやき」の様な文章ではない、ごく短い言葉を積み重ねる事により、一聴すると会話の様に聴こえるつぶやき合戦をしているかに思えます。しかし、子供の頃ならこれでも良いのでしょうが、このつぶやき会話により、文章を考える思考力が育まれず、浅はかな思考が生み出されてしまうのではないかと危惧します。

 思考力を鍛えるべき幼年期に、パターン化された言葉を積み重ね会話ができる様になった気になってしまう英会話を教えるのは、日本人を育てるのに非常に大きな害を与えてしまうのではないでしょうか。最近の大学や学校に関して耳にする「大学が就職予備校になっている」との意見には大いに賛同します。それと同様に、なぜ英語を覚えさせたいのかと言えば、「これからのグローバル化に対応するため」などと聞きます。そこには他者との意思疎通による喜びや学ぶ事で広がる世界の面白さは語られていません。
 

 フィリピンやインドは英語化が進み素晴らしいと吹聴する方もおる様ですが、これらに代表される国々は米国や英国の支配下にあり、英語を話せなければ良い仕事に就けないなど、苦しい事情の上に成り立つ現状があります。
 高等教育を自国の言葉で学ぶのは先進国にとっては至極当たり前のことですが、英語に代表される他言語でなければ高等教育を受けられない国は、かなり沢山ある様です。先人が残してくれた言葉を捨てて社内公用語を英語にしたり、授業を全て英語で学ぶの事は、私の目には非常に愚かしい行為と映ります。
 

 京都大学の准教授、柴山桂太さんは「自分の考えは自身から生まれて来ると考えていたが、その実、日本語に立脚している」等の趣旨の事を語られていました。工業デザイナーの奥山清行さんは「山形弁、標準語、イタリア語、英語、ドイツ語で話す時、言語毎に自分の思考方法や個性が変わる」と話しておられました。この感覚は私もイタリア人と話している時に感じた事があります。
 つまり、日本人を日本人たらしめんとする重要な要素は、日本語で思考する事にあると結論づけられます。その形成期に他言語を半端に覚えさせるのはかなり怖いと感じるのです。
 イギリスに留学し英語をかなり解した夏目漱石さんは、逆に日本語の理解を深める意義について語っていたそうです。余談ですが夏目漱石さんの書籍の中において内容も忘れたのですが、「こころ」だけが私に影響を与えています。

 英語が世界の共通語であり(お金儲けには)有益な言語だという事は充分に理解しているつもりですが、その安易な金儲けを選択すれば日本の独自性が失われ、行き着く際は発展途上国(なんてアホくさい表現でしょうか。端的に言えば後進国)に成り下がるのは確実です。といよりも現状は確実に後進国の仲間に片足を突っ込んでいるのではないでしょうか。二十年以上前は世界経済の18%近い経済力を誇った日本が今では5%強とだいぶ落ちぶれています。

 これらの凋落ぶりは、「英語」が悪いのではなく安易な選択によって生み出された結果です。従って英語批判をしたいのではなく、安っぽい思考を避け、面倒でも議論を尽くす姿勢(これは他者に限らず自身の内省におていの議論も含めます)が大切です。
 他人と議論を尽くすのは衝突起こり得るため気がひける一面はありますが、会話、意見交換からしか得られない発想もあるため、私は恐れずに自身の思うところを露わにしています。

 ここからはまさしく雑記ですが、黒田龍之介さんという言語学者の書籍に書いてありましたが、学会で集まり少人数で会話をしていたら、ふとしたきっかけで共通言語がロシア語とわかり、その後はロシア語で話をした。とあり、これは格好良いなと思いました。後年、ローマで女性から話しかけられ、少し話をしたらスペイン人でした。その場はイタリア語が共通言語でした。少しでも複数言語が話せると楽しい経験ができるのも事実です。